武蔵國分寺 │ 国分寺
武蔵國分寺
お鷹の道を抜けてすぐにある武蔵国分寺は、長年病気と飢餓に苦しむ国民と日本の国を救おうと発願し、詔して建立された武蔵國分寺ですが、
鎌倉時代、元弘3年(1333年)分倍川原の合戦で幕府軍の猛攻を受けた新田軍が堀金(現在の狭山市)まで一時退却した際、日本最大級の寺院、武蔵国分寺と武蔵の国が総力を挙げて建立した大伽藍が焼失したといわれる。
本殿(医王山最勝院国分寺)
灯篭に彫られていた狛犬
楼門
昭和51年10月7日、市指定文化財、指定建物は間口三間、奥行二間の楼門造り、板金葺で、江戸時代の建築様式をよくとどめています。
この門は、東久留米市の米津寺の楼門を明治28年に移築したものです。
万葉植物園
昭和39年1月15日、市指定天然記念物、指定
史跡武蔵国分寺跡を訪れる人々に、この寺が栄えていたころに編さんされた「万葉集」より、
当時の歌人達が好んで歌の題材とした植物を集め、国分寺創建のころの生活や、文化、
思想を知る一助にと、元国分寺住職が昭和25年から13年かけて採集したもので、
約160種の植物が集められています。
仁王門
昭和39年1月15日、市指定重宝、指定この門は、宝暦年間(1751年~1763年)に建設された入母屋造(いりもやづくり)の八脚門(やつあしもん)で間口が9m、奥行が3.6mあります。
使用されている建築材は、建武2年(1335年)に建立された旧薬師堂に使用されたものを再利用したと伝えられ、杉材の柱などに残る組立て用の穴の彫り方からこのことがうかがえます。
この門の左右には阿・吽の二体の仁王像が安置されていますが、享保3年(1718年)に造立されたもので作者は不明です。
武蔵国分寺薬師堂
昭和51年10月26日、市指定重宝、指定建武2年(1335年)に新田義貞の寄進により国分僧寺の金堂跡付近に建立されたと伝えられているもので、その後、享保元年(1716年)に修復されましたが、宝暦年間(1751年~1762年)に現在地で再建されたものです。
堂内正面の長押には、明和元年(1764年)奉献された深見玄岱の筆になる
「金光明四天王護国乃寺」の寺額がかかけられていますが、
この寺額は東大寺西大門の勅額を模したものです。
手水舎
地蔵
鐘楼
木造薬師如来坐像
大正3年4月17日、国指定重要文化財、指定
薬師堂に安置されている木造薬師如来坐像は、
平安時代末期あるいは鎌倉時代初期の制作と考えられ、作者は不明です。
寄木造の漆箔仕上げで、像高は約191.5cmあります。蓮華座に坐し、
印相は右手が施無畏(せむい)印、左手に薬壺をもっています。
台座および光背は後代の補作と思われます。
薬師堂に隣接する元町八幡神社
祓戸神社
狛犬
武蔵国分寺跡(古代寺院跡)
武蔵国に置かれた国分寺および国分尼寺の跡地現在は歴史公園となり広々した野原のようになっていた、
現在も発掘調査中の箇所があるようでビニールシートがかぶさっている場所がありました。
金堂跡前の武蔵国分寺跡石碑
武蔵国分寺跡石碑付近にある案内板
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